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2019-08-24

バガヴァッド・ギーター学習会(2章14節平等に見る・平らな心)

もりのヨガのyokoです。
8/24、バガヴァッド・ギーター学習会に行ってきました。

東京のTTCでヨガ哲学を教えて頂いた事がご縁で、「今に生きるインドの叡智」著者の成瀬貴良先生の下で、ヨガ哲学やアーサナ(ポーズ)、プラーナーヤーマ(呼吸法)、瞑想等を学ばせて頂いています。東京から成瀬先生が、三島のビージャさんでの学習会に月1回指導にいらしているので、そちらでお世話になっています。
※詳しくは こちら をご覧ください。

「バガヴァット・ギーター」は、「ヨーガ・スートラ」と同様に、ヨーガを学ぶ者にとって欠かすことの出来ない経典です。

インド精神を代表する書物

「バガヴァッド・ギーター」は、インド精神を代表する書物と言われています。


もう一つ代表的な書物の「ヨーガ・スートラ」が世俗的な煩わしさから離れた所での修業=出家的なヨーガを解いているのに対し、「バガヴァッド・ギーター」は、現実社会の中にありながら最強の境地に達する事を解く、在家のヨーガです。


「ギーター」は「スートラ」よりも古く、それまでのヨガの修行は、出家をしないと出来ない、厳しいラージャ・ヨーガ(瞑想の道)のみで、社会生活をしながらでは無理なものでしたが、「ギーター」の説くヨガは、ジニャーナ・ヨーガ(知識の道)、カルマ・ヨーガ(行為の道)、バクティ・ヨーガ(献身の道)の在家のヨガを説いた所に価値があるそうです。


しかも、あらゆる階級の人々、男女や職業の区別なしに、全ての人々に対して説かれている所に、インド人に親しまれている理由があるそうです。


「ギーター」が説かれた頃は、私たちが今行っているアーサナ(ポーズ)をするヨガは無かったそうです。

「ギーター」は、「ヨーガの教え」を説いている

「バガヴァッド・ギーター」は、カウラヴァ家の百人の王子とパーンダヴァ家の五人の王子の、いとこ同士、親族同士の戦いが舞台となり、ヨーガの教えを説いていく教典です。


クシャトリアという「戦う事が義務」の、パーンダヴァ家の五王子の三男アルジュナに対して、戦車の御者に変身してこの戦争に参加していたクリシュナ神が、ジニャーナ・ヨーガ(知識)、カルマ・ヨーガ(行為)、バクティ・ヨーガ(献身)を次々と説いて不安を解消させるという内容です。


戦う事が題材の為、誤解されることがありますが、「義務を全うして戦え」だけではなく、日々の生活の中で私たちは葛藤して心の中で戦っている、それを戦場に例え、ヨーガの教えで導いてくれている事が理解出来ます。

私たちの生活に活きるキラキラした言葉に出会う

簡単に「ギーター」について説明しましたが、国、時代、歴史、社会的背景が全く違うので、正直難しい事や、理解しにくい事もあります。


でも、読み進めていくと、時々、私達の生活の中でも活きる、キラキラとした言葉(智慧)に出会う事ができます。


戒められる・・・とも言えるかもしれません。

バガヴァッド・ギーター 2章14節 平等に見る、平らな心

2章14節の要約

五感を通して得た経験は永遠ではなく、生きている以上はそれらに耐えなくてはなりません。
喜びも苦しみも永遠に続くものではありません。
私たちは、暑寒や苦楽などの二元性に振り回され、それらに出会うとどうしようもなく感情に振り回されてしまいます。
ギーターはそれらに耐えなさいと教えています。


2章14節では、永遠に続くことは無い、無常に耐えよ、いつもずっとあるわけでは無い、生まれたからには良い事だけでなく苦しい目にあう事もある、と言っています。


苦しみが過ぎるのを待つのではなくて、喜びも、苦しみも、平等に見る、平らな心を持つという事を教えてくれています。


良い事があった時には有頂天になったり・・・
悪い事があった時、クヨクヨしたり、不安になったり・・・
良い事でも悪い事でも同じように感情に振り回されます。
それらに耐えなさいと言っているのは、理解しようとしても、感情のコントロールはそう簡単な事ではないのだと思います。

良い出来事でも執着すると失って絶望したり落ち込んだり、悪い出来事でも後から考えると今の自分があるのはあの出来事があったからだと思える事があったり、良いも悪いも表裏一体だという事を今までの人生を振り替えると頷ける事、あると思います。


全てを平等に見る・・・良い事も悪い事も平等に。


この言葉を思い出して、心の波を少しでも小波に、そして平らにしていきたと、しみじみ思います。

学習会は、10章21節まで進んでいます。
時々抜粋して掲載していきたいと思います。

 

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