バガヴァッド・ギーター学習会(13章27節28節あらゆるものの中に等しく神を見る)
もりのヨガのyokoです。
5/22、バガヴァッド・ギーター学習会に録画で参加しました。
東京のTTCでヨガ哲学を教えて頂いた事がご縁で、「今に生きるインドの叡智」著者の成瀬貴良先生の下で、ヨガ哲学やアーサナ(ポーズ)、プラーナーヤーマ(呼吸法)、瞑想等を学ばせて頂いています。※その学びの場は三島のビージャさんです、詳しくは こちら をご覧ください。
私たちの生活に活きるキラキラした言葉に出会う
バガヴァッド・ギーターの学習では、理解しやすい内容ばかりではありませんが、時々ハッと気づかされる、ヨガ哲学が私たちの生活に活きるキラキラした言葉にで会う事があります。
キラキラした言葉と感じるものは、その時の自分に必要な言葉を、聞きたい時に聞く事が出来た喜ばしい感覚です。
勉強会でのテキストの内容をそのまま掲載することは出来ない為、私の感想が主の13章27節、28節をお伝えしたいと思います。
バガヴァッド・ギーター 13章27節、28節 あらゆるものの中に等しく神を見る
13章27節、28節要約
最高の神はわたしたちのすぐそばに、今座っている椅子に、見慣れている景色に、食べ物の中に、出会った全ての人、あらゆるものの中にあり、わたしたちはそれに気づいていないだけです。
最高神があらゆるものの中に等しく存在すると見る人は、自分自身でアートマン(真我、真実の自己)、自己の本質を害することはありません。
そのような人は最高の目的地(解脱)に向かいます。
例:あらゆるものの中に等しく神を見る
グルデーヴ・スワミ・シヴァナンダが人に何か与える時には、その顔に「神に奉仕しているような」感謝の気持ちが表れていたそうです。
最初は寺院のような神聖なものに神様を感じ、それが人や、眼鏡や靴などの物にも同心円を描くように広がり、物を神様を扱うように優しく使われていたそうです。(自分自身は神の手の中にある道具)
身近に神が居ることを知ってしまったら、悪いことなど出来ません。
ヨーガの練習の後に、瞑想の後に、悪い事など出来ません。
片手をヨーガに触れていなければならないのです
ヨガ研修報告でも書きましたが、 リシケシのシヴァナンダ ・アシュラムでは、アシュラムの人、椅子、石からもサーブ、ラブ、ギブの心があふれていて、そういう人や物に囲まれているだけで、心が洗われて、心がキレイになり、悪い事や悪い考えをしたくなくなる、というお話をアシュラム滞在時に伺いました。
わたしたちがこの日本で、日常の中で、今実践出来ることは、いつもヨーガ的な事に接している事です。
テキストに「片手をヨーガに触れていなければならないのです」と書かれていた部分を読み、私の心は一瞬で静かになりました。
最近の私は絶えずヨーガに触れているどころか、 しばらく向き合っていた自分の課題解決の糸口が見つかり、気づきを待たずに意欲的に頭で考えてしまい、結果その考え事に集中してしまっていました。
良かれと思って考えて居ましたが、意識が今と繋がらず、課題と繋がる苦しい時間を過ごしてしまっていたことに気づきました。
その考え事で散った心が一瞬で「今」に戻りました。
今年で一番心が静まりました。
心が静まると、「あらゆるものの中に等しく神を見る」という感覚にも意識が向き、心が落ち着いて来ました。
どんな些細な物や出来事にも、関わる全ての人にも、等しく神を見るシヴァナンダ先生(ここから親しみを込めて先生と呼ばせて頂きます)のように優しく、感謝の気持ちを込めて行きたいと思いました。
ヨガから手が離れてこの感覚からずれて、余分な考え事や、なりたくない感性に繋がっている事に気付いたら、またヨガに触れて軌道修正して自分を取り戻す術がある事は、とても喜ばしい事です。
神という言葉で難しい話と感じた方もいらっしゃるかもしれません。
今、難しいと感じる部分は棚に上げて頂いて、今回私の心が静まったと感じる部分が、考え事でお疲れの気持ちになっている方のハッと気づくきっかけになってくれたら嬉しく思います。
ヨガの学びは私の心をいつも軌道修正してくれます。
この内容が「今この言葉を聞きたかった」という方に届きますように。
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